さくらももこ

さくらももこは死なないと思っていた。

故に、熱心に彼女を追いかけることはしていなかった。後悔している。

他にも“死なない”となぜか思っている人は何人もいる。タモリ・たけし・さんまのBIG3とかダウンタウンとかの芸人もそうだし、YMOの3人や山下達郎などのミュージシャン、それに肉親に対してもそう思っていたりする。“死んで欲しくない”の裏返しなのかもしれないが、その中でも、さくらももこは別格だった。別格というか、どこかで仙人のようにすら思っていた。

妹は「りぼん」の愛読者だった。同時に、私も一時期愛読者だった。拝借して読んでいたのだ。

マーマレードボーイ」や「天使なんかじゃない」などの人気作と合わせて、もちろん「ちびまる子ちゃん」も毎号読んでいて、妹が買っていたコミックも読み、エッセイも読み、まぁ要は兄妹揃ってファンだったわけだ(妹に確認したわけではないから、何とも言えないが)。そしておそらく、母もファンだったはずだ。

何が面白いのか、好きなのか、はっきりと言葉には出来ない。というか、その「言葉に出来ない感じ」が好きだった、とも言える。メルヘンとシュール、日常のフリをした非日常。しょうもなさ、が昇華されて発露するエンターテイメント。田舎住まいの自分には色々と“間に合わなかったもの”がある、と感じていたが、彼女がメジャーであり続けてくれたお陰で、そんな私にもリアルタイムで追うことが出来る人が一人居たのだ。

ただ、高校卒業と同時に上京し、生活環境が一変したせいで、そんな彼女への興味はどんどん薄れてしまっていた。いや、薄れたというよりも、忘れてしまったのだ。いつでもそこにある、居る、と思い込んで、放っておいてしまった。「仙人」という、自分とは違う世界に住む人、の枠に放り込んでしまった。

その日、チャリで晩飯を買いに出かけた私は激しい雷雨に遭い、びしょ濡れになって爆笑しながら(比喩ではなく、本当に爆笑してしまった)帰宅した。どういう状況?と思い、ネットを開く。

「えっ!」

雷雨に、ではない。さくらももこが死んだ。そのニュースに声を出した。

そして、思いのほか大きく空いた穴に、すっぽりと落ち込んでしまった。東京の自宅には、彼女の著作は、無い。

さくらももこは死なないと思っていた。

いや、確かに、死なないのだ。仙人なのだから。その証に、私は彼女の絵に、言葉に、今からでも触れることが出来る。

彼女の作品を、改めて読んでいこうと思う。